関係人物 オ

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関係人物 オ

大関文仲 おおせき ぶんちゅう

太田錦城 おおたきんじょう → 太田芝山 おおたしざん
太田芝山 おおたしざん 

大村光枝 おおむらみつえ

大森子陽 おおもりしよう

大森求古 おおもりきゅうこ

小越仲珉 おごしちゅうみん

おのぶ → 山本秀子

お遊 →   山本遊子 やまもとゆうこ

【大関文仲 おおせき ぶんちゅう】
氏名・号  名は師賢、字名は文仲、号は善軒、樗散生
生没年  一七八〇?~一八三四。享年五十四。
出身地  新潟県西蒲原郡月潟村(現新潟市南区)曲通りの生まれ。
職業  江戸後期の儒学者。漢学、和歌、医学によく通じていた。
略歴 良寛との関係  良寛の弟由之、鈴木文臺、中原元譲などとも交流がある。『晩年盲人となり、曲の盲人といわれる。良寛生存中に「良寛禅師伝」を書いたことが知られている。文仲は良寛に「良寛禅師伝」の目通しを求めたが、良寛から断りの手紙をもらっている。
  「良寛禅師伝」の内容は次のとおり。(原文は漢文)
 良寛禅師は俗姓橘氏、三島郡出雲崎駅の人なり。幼より道気あり、稍(やや)長ずるに及び、内外の群籍を博渉し、所として明らかならざるはなし、又、詩を能くし、書を能くし、和歌を能くす。齢(よわい)未だ弱冠ならざるに、薙髪(ちはつ)して出家す。人に語って曰く、「世人皆謂う。僧となりて禅に参ずと。我れは即ち禅に参じてのち僧となる」と。のち久賀美山中に庵す。卑陋を遂極し、風雨を修蔽し、禅師その中に起臥す。時あって経を誦(ず)じ、時あって静坐し、時あって吟哦し、時あって字を作(か)く。みな偶然にこれを作(な)すのみ。
 嘗て国中上一寺に在りしとき、倶舎(くしゃ)論を講ず。義理精微にして、衆僧欽仰す。居ること十日許(ばか)りにして罷(や)めて去る。衆僧これを追い、再三懇請す。禅師曰く、「吾れ倦(う)みたり」と。
 人ありて地獄極楽の説を問う。答えて曰わく、「紅葉止啼銭(こうようしていせん)」と。又、人ありて之を問えば曰わく、「古(いにしえ)はこの事なけれど、今は或いはこれあらん」と。人ありて之を問えば、禅師即ち和歌を詠じて述べ、但(ただ)須(すべから)くこれを弥陀の意(こころ)に委(ゆだ)ぬべしと。識る者これに決し心酔す。
 禅師の詩たる高雅・幽淡にして、寒山を髣髴(ほうふつ)せしむ。その打毬(だきゅう)を詠懐せし二詩の如きは、東都鵬斎翁の称(たた)うるところたり。ある人禅師の詩の多く声病(せいびょう)を避けざるを誥(つ)ぐ。禅師曰わく、「我れは吾が志の欲するところを言うのみ、何ぞ声病(せいびょう)をこれ知らんや。その詩律に嫺(なら)う者あらば、即ち将に点竄(てんざん)をなせ」と。その人逡巡(しゅんじゅん)して退(しりぞ)く。
 禅師太(はなは)だ人のために字を書くこと欲せず。一日、その書を強要する者あり。乃ち已(や)むを得ず、剡藤(えんとう)(注1)を展開して、大文筆を援(ふる)い。細書す。この人その片紙を穫(え)て珍とすること拱璧(きょうへき)(注2)の如し。好事(こうず)聞く者絶倒せざるはなし。
 禅師又好んで抓子児(てまり)を弄し、嚢裏(のうり)に毎(つね)に数塊(すうかい)を蓄え、到る所児童と戯る。或いは迷蔵戯(かくれんぼ)をなし、群児手を拍(う)って環繞(かんぎょう)して笑い楽しむ。倦めば則ち佯(いつわ)り死す。群児囲いを解けば、乃ち徐々に興(お)きて行く。
 人これと酒を飲めば、能く飲みて閑暢(かんちょう)たり。これに舞踏を勧めれば、輙(すなわ)ち起って舞う。興尽くれば止み、謝せずして去る。その拘牽(こうけん)(注3)せざること多くこの類いなり。これらの数者は特に禅師の土苴(どしょ)(注4)のみ。
 その真の如きに至っては、則ち固(もと)より俗諦の得て窺(うかが)うところにあらざるなり。禅師僧となって已来(いらい)、今に四十余年、清浄(しょうじょう)・無欲、一点の塵垢(じんく)を惹(ひ)かず。徳を韜(つつ)み照を埋(うず)め、以(もっ)て冥物(めいぶつ)と名づけ、恍徉(こうよう)(注5)自ら恣(ほしいまま)にして、以て適(ゆ)くのみ。豈(あに)真に達磨氏の心印を得たる者にあらずや。余夙(つと)に禅師の高風を尚(たっとび)び、人のその佳話を伝うる毎に、則ち得るに随いてこれを録し、以て伝を立つ。
(注1)剡藤…藤を原料とした紙の一種                             
(注2)拱璧…両手で抱えるほど大きな璧。壁とは薄く環状に作った玉。
(注3)拘牽…ひきとめられる                                     
(注4)土苴…あくた。土芥。                                     
(注5)恍徉…ぼんやりとしてさまよう

【太田芝山 おおたしざん 】
氏名・号  名は元貞、字は公幹
生没年  ?~一八二五
出身地  太田錦城(きんじょう)だとすれば、加賀大聖寺の人。
職業  折衷学の儒学者
略歴  皆川淇園、山本北山に学ぶ。
良寛との関係  文化十年頃、越後に滞在し、五合庵に良寛を訪ね、一夜を明かして歓談したという。芝山が牧ヶ花の観照寺で講義を行ったとき、十八歳の鈴木文臺(ぶんたい)が論語や唐詩選を講義して芝山を助けた。それを聴いた良寛が、文臺は将来大成することを見抜いたという。

【大村光枝 おおむらみつえ】
氏名・号  藤原光枝ともいう。幼名、彦太郎。名前について東鄕豊治『新修良寛』には光枝に「みずえ」のルビがある。
生没年  文化十三年(一八一六)四月十六日大村光枝没。没年は六十三歳説、六十四歳説がある。
職業  江戸の国学者。歌人。信濃の松代藩士。
略歴  大村光枝は。寛政元年(一七八九)から二年にかけて、越後に来た。寛政二年(一七九〇)秋に、出雲崎の橘家に立ち寄って歓待を受け、泰雄(以南)、泰儀(やすよし)(由之)、良犢(よしうし)(宥澄)、浄土真宗願成寺住職景山上人とともに、歌仙(三十六句の長句(五七五)と短句(七七)を連ねる形式)を巻いた。良寛(三十三歳)は円通寺にいて不在。十四歳の妹みかは琴を奏でた。また、浄玄寺で古今集の講義もしている。
 このとき以来、由之、馬之助、みかの橘屋の一族、さらには原田有則と正貞親子、阿部定珍らは大村光枝の教えを受けるようになり、歌人でもあった光枝から歌の添削指導も受けていた。
良寛との関係   光枝の著作「越路の紀行」に良寛のことが書かれている。
  享和元年(一八〇一)にも大村光枝は来越した。このときは五合庵に四十四歳の良寛を訪ねている。原田有則、阿部定珍と大村光枝が三人で良寛を訪ね、歌を詠み交わしている。このとき光枝は良寛に熱心に、万葉集、記紀(古事記、日本書紀)、古代の歌謡などの話をしたのではないか。大村光枝と逢ってから、良寛は万葉集や記紀の世界の魅力にとりつかれたようである。
 翌年には、由之・馬之助、原田鵲斎、阿部定珍と大村光枝は手紙を交わし、添削指導も行っている。由之は、前年は出府(江戸に出ていた)していたため、越後で大村光枝と会えなかったせいか、江戸に大村光枝を訪ねている。
 良寛は万葉集や国学について、大村光枝から大きな影響を受けた。二人が唱和した旋頭歌(せどうか)(五七七五七七の和歌)がある。
     庵(いお)に来て帰る人見送るとて    (人…大村光枝)                                 
山かげの 槙(まき)の板屋に 雨も降り来(こ)ね 
さすたけの 君がしばしと 立ちどまるべく (良寛)
(槙…杉などの針葉樹)
(さすたけの…枕詞)
(しばしと…しばらくの間)
忘れめや 杉の板屋に 一夜見し月
ひさかたの 塵なき影の 静けかりしは (光枝)
(ひさかたの…枕詞)

【大森子陽 おおもりしよう】
氏名・号  名は楽、号は狭川。
生没年  一七三八~一七九一。墓は旧寺泊町(現長岡市)当新田にあるが、鶴岡市の明伝寺(みょうでんじ)に大森子陽先生鬚髪碑(荘内日報社サイトへのリンク)がある。
出身地 旧寺泊町(現長岡市)当新田に生まれた。
職業  儒学者。北越四代儒の一人といわれた。
略歴 大森子陽は、旧白根市(現新潟市南区)茨曽根(いばらそね)永安寺の大舟和尚に禅や古文辞学など学んだ。大舟和尚に学んだ同門に分水町(現燕市)地蔵堂の大庄屋富取家七代長太夫正則、地蔵堂の町年寄中村家八代旧左衛門好忠(以水)、有願(うがん)などがいた。有願とは同年齢の学友であった。大森子陽は文孝(良寛)より二十歳年長であり、文孝(良寛)が十五歳の時には三十五歳の若さであった。
 子陽は、江戸に出て、儒者瀧鶴台(たきかくだい)に学んだ。瀧鶴台は仏教にも精通していた。瀧鶴台と親しかった細井平洲は、瀧鶴台の逸話を次のように語っている。
 長州藩の重役たちが鶴台はじめ多くの人を集めて宴会を開いた。ある藩の実力者が鶴台に「日本と中国とどちらが治めにくいか」と質問した。鶴台は「中国の方が難しいでしょう」と答え、その理由として「中国には孔子という聖人と孟子という賢人がおられ、その教えが続いており、中国の国民はこの教えを良く守っているので、聖賢の道を知らない政治家が政治の座についても、国民はその政治家を受け入れないが、日本の国民は聖賢の道にはそれほど通じていないので、聖賢の道を知らない政治家が政治を執り行っても、何も感じない。」と述べた。長州藩の重役は聖賢の道を知らないのに、権力を振るい、民衆を苦しめているという諫言であった。
 瀧鶴台の師は服部南郭(はっとりなんかく)であり、服部南郭の師は古文辞学派の荻生徂来(おぎゅうそらい)である。古文辞学派は、人間性を画一的に捉える朱子学を批判し、人間の個性を肯定的に捉えようとする学派であり、論語や盛唐の詩などの古典を直接学ぶべきという主張であった。服部南郭は特に詩文を重視し、そこに人間性の解放を求めた。
 また、子陽は、後に上杉鷹山の師となった折衷(せっちゅう)学派の細井平洲などの会読にも列した。折衷学派とは、朱子学、古学、陽明学などの長所を取り入れた学派で、経世済民を目指し、実践を重んじた学派である。良寛禅師との交友もあった亀田鵬斎も折衷学派であった。
 川内芳夫氏の『良寛と荘子』(考古堂書店 平成十四年(二〇〇二))によれば、子陽は道教(老荘の学)や仏教に権威のある瀧鶴台を師とし、さらに荻生徂来の弟子で「老荘の学」の権威宇佐見灊水(しんすい)にも学んでいる。宇佐見灊水は『王注老子道徳経』(二巻)を著した。その弟子の海保青陵(かいほせいりょう)は『荘子解』を著した。したがって、大森子陽は儒学や漢詩文・仏教だけでなく老子や荘子も精通してはずである。
 子陽は、宝暦末年か明和元年(一七六四)二十七歳の時に、東遊した。江戸で儒学を学び、諸侯に仕官して藩の儒者となり、経世済民を図ることを志したが、江戸に伴った父の病気のため、志半ばにして、明和五年(一七六八)子陽三十一歳のとき、越後に帰り、地蔵堂に塾を開いた。栄蔵(良寛)が十一歳の時であり、このときから三峰館に通ったと思われる。
 その後、三峰館を一時閉鎖し、向学心と仕官の希望を抱いて、再び江戸に行き学んだが、明和七年一七七〇年帰国した。翌年老父が没し、自らも病気になったりしたが、学塾を再開した。橘崑崙(こんろん)の『北越奇談』に「子陽先生に学ぶこと総て六年」とあることから、文孝(良寛)は十八歳で三峰館を退塾するまでの七年間のうち、子陽が再度東遊した約一年間を除き、合計で約六年間大森子陽のもとで学んだものと思われる。
 子陽は、安永六年(一七七七)、良観(良寛)二十歳のときに、越後を離れ、鶴岡に移住して塾を開き、大泉藩の子弟を教育した。このことは、文孝(良寛)が十八歳で家出・出奔して、良観と名乗っていた出家するまでの四年間の放浪参禅時代の、前半までは、子陽は地蔵堂にいたのである。
 大森子陽は、鶴岡では軽輩から士分に立身出世した者も随分おり、実践学を終生一貫して説いて人材育成に務めた。しかし、寛政三年(一七九一)年、鶴岡で亡くなった。享年五十四歳。庄内藩士に斬殺されたという説は誤りである。
 文孝(良寛)は、若き博学の情熱家大森子陽の薫陶を受け、漢詩漢文の知識や儒学を教え込まれたほか、荘子の思想を十分に学ぶとともに、仏教についても学び、後年の深く幅広い学識の基盤を形成した。さらには、経世済民の思想も受け継ぎ、衆生済度を目指す慈愛の心や、人間性を尊重し差別を憎む平等の思想を育んだのである。
   良寛は十三歳頃から十八歳まで大森子陽の学塾・三峰館で儒学や漢詩文を学ぶ。大森子陽は良寛の生き方に大きな影響を与えた。良寛に子陽先生を弔う長詩がある。

【大森求古 おおもりきゅうこ】
  大森子陽の子。若い頃京都に遊学し、かつて良寛の弟香が師事した菅原長親(ながちか)の塾で学んだ。享和元年(一八〇一)良寛四十四歳のとき、越後に帰国した。得意な時期もあったが、晩年は地蔵堂にいて不遇をきわめた。
良寛との関係  良寛は「求古を悲しむ歌」と題する長歌を残している。

【小越仲珉 おごしちゅうみん】
職業  旧寺泊町(現長岡市)夏戸の医師。
良寛との関係   親の仲珉は、郷本の塩炊き小屋を放火した犯人として生き埋めにされそうになった良寛を救った。子の仲珉は、素行に問題があり、所払いとなる。良寛に歌で諭される。