関係人物 山本

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関係人物 山本

山本伊織   やまもといおり → 山本以南 やまもといなん

山本伊織泰幹 やまもといおりやすみき → 山本泰幹 やまもとやすみき

山本以南 やまもといなん

山本馬之助 やまもとうまのすけ

山本香 やまもとかおる

山本左門泰雄 やまもとさもんやすお → 山本以南  やまもといなん

山本左門泰樹 やまもとさもんやすき → 山本馬之助 やまもとうまのすけ

山本左門良胤 やまもとさもんよしたね 

山本庄兵衛 やまもとしょうべい

山本新左衛門 やまもとしんざえもん

山本新左衛門尉泰儀 やまもとしんざえもんのじょうやすのり → 山本由之 やまもとゆうし

山本新左衛門泰世 やまもとしんざえもんやすよ → 山本泰世 やまもとやすよ

山本新之助 やまもとしんのすけ → 山本以南 やまもといなん

山本たか やまもとたか 良寛の妹(次女)

山本秀子 やまもとひでこ

山本みか やまもとみか

山本むら やまもとむら 良寬の妹(長女

山本泰樹 やまもとやすき →  山本馬之助 やまもとうまのすけ

山本泰幹 やまもとやすみき

山本泰世 やまもとやすよ

山本遊子 やまもとゆうこ

山本由之 やまもとゆうし

山本宥澄 やまもとゆうちょう

 

【山本以南 やまもといなん】良寬の父
氏名・号  新之助、左門泰雄、伊織。以南は俳号。
生没年  元文二年(一七三七)生まれる。寛政七年(一七九五)七月二十五日、京都の桂川で入水自殺。享年五十九歳。
出身地  旧与板町(現長岡市)
職業  出雲崎の名主橘屋。
略歴  以南の実家新木家は割元庄屋を務める家柄である。新木家第九代与五右衛門富竹の第二子として重内(のちの以南)が生まれる。富竹は、白雉(はくち)と号して俳句をたしなんでいた。
 元文五年(一七四〇)以南が四歳の時、以南の父は没した。その後、以南の母は再婚した。
 延享三年(一七四六)以南が十歳の時、以南の母も没した。
以南も父同様に若いときから俳諧を嗜んでいた。
・宝暦五年(一七五五)二月十八日、秀と改名した おのぶ二十一歳 と十九歳の新之助(以南)が結婚。新木家に婿入りした。
・宝暦九年(一七五九)養祖父新左衛門の名主職を二十三歳の伊織(以南)が継ぐ。俳号は以南。俳人として著名で「北越蕉風中興の棟梁」といわれる。
・宝暦十一年(一七六一)、以南二十五歳。養祖父左門良胤亡くなる。神輿事件。
・明和元年(一七六四)義父新左衛門が亡くなる。
・安永四年(一七七五)、敦賀屋参賀事件。十八歳の榮蔵が出奔。
・安永七年(一七七八)、由之十六歳で名主見習役となる。良寛の出家の願いがかなう。
・天明三年(一七八三)、妻の秀が亡くなる。享年四十九。
・天明六年(一七八六)、以南(五十歳)は隠居し、由之が二十四歳で町名主となる。
・寛政七年(一七九五)七月二十五日、京都の桂川で入水自殺。享年五十九歳。

【山本馬之助 やまもとうまのすけ】
氏名・号  左門泰樹ともいう。幼名は泰済、通称は馬之助。号は北渚、眺島斎。
生没年  寛政元年(一七八九)生まれ。天保二年(一八三一)七月二十三日没。享年四十三歳。
略歴  由之の長男。良寛の甥。歌は大村光枝について学び、書は王羲之(おうぎし)、趙子昴(ちょうすごう)を学んでうまかった。井之鼻村の名主となる。父由之は家財没収の処分を受けたが、田畑や家屋敷はそのまま残り、馬之助が引き継ぐ。良寛様からの手紙が十通残る。

【山本香 やまもとかおる】良寛の弟(三男)
氏名・号  橘泰信、橘中務香、諱(いみな)は泰信(やすのぶ)、字は子測(しそく)、澹齋(たんさい)と号した。
生没年  明和四年(一七六七)生まれる。寛政十年(一七九八)良寛四十一歳の年の三月二十七日、香は没し、東福寺に葬られた。享年三十二歳。円明院の過去帳には病死とある。巌田洲尾は、桂川に身を投じたと記しているが、父以南と混同している可能性がある。
略歴  寛政四年(一七九二)二十六歳の香は京都にのぼり、文章(もんじょう)博士菅原氏高辻家の紀傳道学生となり、俊英の香はやがて学頭(教授)になった。
 寛政七年(一七九五)香二十九歳の年、父以南が入水自殺する前に香に遺書を託した。香は父の自殺を防げなかったことから、自らも入水自殺しようとしたが助かった。
 寛政八年(一七九六)三十歳の時、東福寺で出家する。ある日、光格天皇が東福寺に行幸になり、天皇の命により香も作詩した。それを御覧になられた天皇はその出来映えにいたく感心され早速、香は宮廷の詩会に召される。しかもその後、たびたび招かれる栄誉を受けている。数編の応制の詩も残されている。かつて光格天皇及びその皇太子の侍講となり、古今集を進講したとき、御褒詞を辱(かたじけの)うし、名を香と賜ったとも言われている。
 実に博学多才で、漢学、国学、歌学に通じた稀に見る秀才であったが、惜しむらくは三十二歳の若さで病没してしまった。

【山本左門良胤 やまもとさもんよしたね 】良寛の義曾祖父
 山本左門良胤は良寛の義曾祖父。
・貞享二年(一六八五)加茂の中沢家の平治郎が生まれる。
・正徳元年(一七一一)から正徳三年(一七一三)までの間に、中沢平治郎が橘屋に養子として入り、左門良胤と名のる。橘家中興の祖となる。
・享保十五年(一七三〇)八月二十一日に、左門の代に橘屋の血筋が途絶えたため、嗣子山本新左衛門の嫁に、佐渡相川の分家から、 おその を迎えた。
・寛延三年(一七五〇)に、新左衛門と おその 夫婦の間に嗣子ができなかった(子は夭死)ため、新津桂家から養子を迎え新次郎とし、再び佐渡相川の分家から 十六歳の おのぶ を嫁に迎えた。
・寛延四年(一七五一)の春までに、新次郎と おのぶ は離別。おのぶは橘屋の養女として残る。
・宝暦三年(一七五三)三月十日、おその は亡くなる。
・宝暦五年(一七五五)二月十八日、秀と改名した おのぶ二十一歳 は十九歳の新之助(以南)と結婚。
・宝暦八年(一七五八)良寛生まれる。
・宝暦九年(一七五九)養祖父新左衛門の職を二十三歳の伊織(以南)に譲る。
・宝暦十一年(一七六一)七月十一日、良寛四歳の年に義曾祖父左門良胤は亡くなった。享年七十七歳。
・明和元年(一七六四)十一月十四日、良寛七歳の年に義祖父新左衛門は亡くなった。  

【山本庄兵衛 やまもとしょうべい】
氏名・号
生没年  宝暦九年(一七五九)没
出身地
職業  米屋
略歴  相川橘屋は出雲崎橘屋が相川に出した分家。金山で栄えた相川は人口が激増したため、橘屋は米を商う店を出した。菩提寺は大乗寺。
良寛との関係  良寛の母となる「のぶ」は相川橘屋第五代の娘。

【山本新左衛門 やまもとしんざえもん】良寛の義祖父
 新左衛門は山本家の名跡で多くの当主が名乗っているが、良寛の祖父も山本新左衛門を名乗った。
 生年不詳。没年は明和元年甲申(一七六四)十一月十四日。
 出雲崎町の名主橘屋山本家の当主、良寛の祖父であり、以南と秀子の義理の父親。良寛の祖母おそのに婿入りした。新左衛門とおそのの子の新之助は夭死した。以南を養嗣とし、宝暦九年(一七五九)養祖父の職を伊織(以南)に譲った。

【山本たか やまもとたか】良寛の妹(次女)
明和六年(一七六九)、以南の次女たか誕生(秀子三十五歳、良寛十二歳)
たか子は長じて町年寄高島伊八郎に嫁いだ。四男十女の子供を養育する。
文化七年(一八一〇)橘屋は町民から訴えられた訴訟に敗訴し、由之は家財没収・追放、出雲崎の名主・由之の右腕であった高島伊八郎は「役儀取り放ち、過料銭五貫文」の処分を受けた。
文化九年(一八一二)四月三日没、享年四十四歳。訴訟騒動の心労がたたって亡くなったようである。

【山本秀子 やまもとひでこ】良寬の母
 良寛の母は橘屋の佐渡相川にある橘屋の分家の娘でおのぶという名前であった。父は山本庄兵衛である。良寛の祖父に子供がいなかったから、寛延三年(一七五〇)橘屋では新津の大庄屋桂家から十七歳の次男を婿養子にもらった。それが橘屋新次郎である。その新次郎に相川から十六歳のおのぶが嫁いできた。
 ところが思わぬ悲劇が起きたのである。二人が結ばれてから半年後に、桂家の跡取り息子であった長男が出奔したのである。桂家ではやむにやまれずに養子に出した次男の橘屋新次郎を引き戻したのである。普通ならば、新次郎の妻おのぶもろとも新津の桂家に行くところだが、おのぶは橘屋の血を残すために相川の分家から嫁いできた娘なので、新次郎と一緒に新津の桂家に行くわけには行かなかったのだ。そこで泣く泣く二人は別れ、おのぶは養女として橘屋に残ったのである。
 おのぶと生き別れしなければならなかった新次郎は、その悲しみを紛らわすためだろうか、学問を修めるために京都に旅立った。新次郎は桂家第四代の誉章(たかあき)となる。新次郎という夫を突然喪って茫然自失のおのぶは、橘屋の血を守るために、別の男性を聟(むこ)に迎えなければならない立場であったが、なかなか気持ちの整理が付かないでいたのだろう。そこで心機一転、名前を秀子に変えたのである。
 宝暦五年(一七五五)、二十一歳の秀子は与板の割元庄屋新木家から二つ年下の次男重内(以南)を婿に迎えた。橘屋新之助である。良寛の父は俳号である以南と呼ばれることが多い。
  母秀子は俳諧にのめり込み名主職や家業をあまり顧みない夫以南の代わりになって、女の細腕一本で徐々に財政が厳しくなっていった橘屋を切り盛りした。良寛が祭りの踊りの輪にも加わることなく、庭の灯籠の下で論語を読んでいたという逸話では、女ながらも薙刀(なぎなた)を持って不審者(実は良寛)に近づいていったほど気丈な面も持っていた。 また、二十四歳で良寛を産んでから四十三歳で三女みかを産むまで、四男三女の子を産み育てた。
 秀子は慈愛の心や信仰心が篤く、その影響もあってか、良寛と四男宥澄は出家し、三女みかは浄玄寺に嫁ぎ晩年は尼となった。長女むらの息子も能登の龍谷寺の住職を務めた。 使用人も多かったであろう橘屋の切り盛りや家事、七人の子の育児などに追われ、母秀子は天明三年(一七八三)四十九歳で没した。二十六歳の良寛は母の葬儀に出ることはできなかった。

山本みか やまもとみか】良寛の妹(三女)
 安永六年(一七七七)良寛が二十歳の年に、三女のみか子が生まれた。母秀子四十三歳の子である。寛政九年(一七九七)に浄玄寺十九世子観と 二十一歳のみか はに結婚したが、享和三年(一八〇三)子観は早世したため、存命していた十八世覚賢は娘の おきつ に大久保智現を招いて二十世とした、ところがまもなく おきつ が死去した。
 文化元年(一八〇四)寡婦となっていた 二十八歳の みか が浄土真宗浄玄寺の四十一歳の曽根智現の後妻に迎えられた。良寛の漢詩にある天華(てんげ)上人とは曽根智現のことと思われる。
 みか は老後、剃髪して妙現尼を名のった。和歌をよくし、自筆歌稿がある。貞心尼とも歌を詠み交わした。嘉永五年(一八五二)みか は七十六歳で没した。 

【山本むら やまもとむら】良寛の妹(長女)
 長女むら子は宝暦十年(一七六〇)良寛が三歳の年に生まれ、長じて寺泊の外山文左衛門に嫁いだ。文左衛門は回船問屋、酒造業を営み、町年寄や大庄屋も努めた有力者だった。むら子は良寛が国上山に住んでいた時は、何かと身の周りの世話をし、良寛の力になっている。
 文政七年(一八二四)良寛六十七歳の年、三月五日に、良寛の妹むらの夫、寺泊町の回船問屋で酒造業も営んだ外山文左衛門が六十八歳で亡くなった。むら もその後、病床につき、十二月十七日、六十五歳で亡くなった。墓は寺泊町(現長岡市)の法福寺にある。良寛は、むら の病気を見舞うため、十一月四日に和歌三首を詠んで贈った。
越の海 野積の浦の 雪海苔は かけて偲ばぬ 月も日もなし
(かけて…心にかけて)
越の海 野積の浦の 海苔を得ば 分けて賜れ 今ならずとも
越の浦の 沖つ波間を なづみつつ 摘みにしのりを いつも忘れず
(なづみつつ…難渋しながら)
 野積は雪の降るころに、質の良い岩のりが穫れるため、むらは毎年、良寛に雪海苔を贈っていたのでしょう。良寛は元気になって、また雪海苔を贈ってほしいという歌を贈り、見舞ったのである。
 妹むらの死後、良寛はむらへの哀傷歌を詠んでいる。
春ごとに 君が賜ひし 雪海苔を 今より後(のち)は 誰(たれ)か賜はむ
  むら は、良寛の着物を洗濯したり、繕ったり、なにかと身の周りの面倒を見ていたのである。良寛が国上山の乙子神社草庵を去って、島崎の木村家に移住した背景には、むら の死があったのではないか。

【山本泰幹 やまもとやすみき】
 山本泰世の養子。明治二十年に山本家家譜を撰した。明治二十九年(一八九六)没。泰幹の二男が山本鐵之助(やまもとてつのすけ)。山本鐵之助の長男が山本壮太郞(やまもとそうたろう)。山本壮太郞の長男が現在の当主の山本良一氏。

【山本泰世 やまもとやすよ】
氏名・号  新左衛門ともいう。
生没年  文久三年(一八六三)四月十三日没。享年五十四歳。
出身地
職業
略歴  泰樹(馬之助)の子。歌やうまく書が巧み、良寛の墓碑の揮毫者。
妻は山本蝶子。高田藩士の女(むすめ)、明治七年(一八七四)三月三十一日没。享年六十一歳。

【山本由之 やまもとゆうし】良寛の弟(次男)
名前・号 山本新左衛門尉泰儀(やすのり)。通称は左衛門。号は由之、巣守(すもり)、雲浦、無花果苑。
 良寛が六歳の年に、以南の次男由之が生まれる。由之は良寛二十一歳の時、良寛に代わって名主見習役になり、二十四歳の時、父以南が五十歳で隠居したことに伴い名主となった。その四年後に妻安子との間で長男馬之助を授かる。
 由之は、良寛に替わって出雲崎町の名主橘屋を嗣いだものの、文化七年(一八一〇)町民から訴えられた訴訟に敗訴し、家財没収・追放という判決を受け、橘屋は没落した。
 この年に妻の安(やす)が亡くなっている。
 由之はその後一時期、石地に移り、文化十四年(一八一七)福井、三国に移住し、そこを根拠に、各地を廻った。
 翌年の文政元年(一八一八)には京都、奈良、吉野、伊勢、松坂、大津を巡覧して、三国に戻った。
 文政三年(一八二〇)福井県三国を出発して帰国の途につき、出雲崎に帰宅した。
 文政四年(一八二一)、出雲崎から酒田に向けて出発し、酒田で一年ほど滞在した。
 文政五年(一八二二)酒田を出発し、秋田で暫く滞在した後、翌年には青森、翌々年には北海道にも渡った。
 文政九年(一八二六)二月頃、各地の旅から戻り、与板に庵を結んで隠栖した。
 天保五年(一八三四)享年七十二歳で没した。遺言により由之の墓は良寛の墓の隣に建てられた。
 桂時子に和歌を教えるなど和歌の宗匠として活躍した由之の後半生は、国内第一の遊歴歌人としても評価できる。文法書『海月(くらげ)の骨』を書いた。 
  由之は晩年の兄良寛との親しい交流を記録した日記を残した。「山つと」と「八重菊」である。
 「山つと」は、文政十三年(一八三〇)三月二十日に小山田の桜見物に出かけ、閏三月から、四・五月を経て、六月一日に与板の草庵に帰るまでの旅の記述から始まり、七月六日に良寛の病気見舞いに島崎に出かけ、そこで兄良寛と唱和した歌も記述し、最後は九月二十七日の記述で終わっている。
 「八重菊」は、文政十三年(一八三〇)九月から翌天保二年(一八三一)八月までの約一年間の日記である。この間の旅行は茨曾根、地蔵堂、島崎、新津などであり、特記すべきは良寛の遷化と、わが子泰樹(馬之助)の死亡である。良寛の和歌や、良寛が亡くなった際の様子が詳しく記述されており、貴重な資料となっている。

 【山本遊子 やまもとゆうこ】
 山本泰樹の妻。おゆう。七日市の山田家から嫁ぐ。文政八年(一八二五)没、寿三十五。文政七年(一八二四)この年の冬に良寛は由之宛に手紙を出した。書き出し部分に、「寒中いかがかと心配していたが、由之の手紙を見て安心した。力がつくまでは用心せよ」とあり、由之は東北・北海道の旅から帰ってきて風邪でもひいたのか、出雲崎以外のどこかで臥せっていたが、良寛に大丈夫だとの手紙を出したようである。
 この手紙の中に、馬之助の妻おゆうの下血が全快するまでは養生するようにとの記述がある。下血とは腸管の出血をさすので、おゆうはかなり危険な病状だったようである。このとき馬之助は井之鼻(いのはな)村の名主職を務めており、家族は出雲崎に住んでいたものと思われる。しかし由之は所払いの身であり、出雲崎以外の場所に住んでいた。
 文政八年(一八二五)良寛六十八歳の年の八月十八日、三十七歳の馬之助の妻おゆうは、三十五歳で亡くなった。馬之助が妻おゆうの死を哀傷した歌稿が残っており、そのところどころに良寛の添削の筆が入っている。

【山本宥澄 やまもとゆうちょう】良寛の弟(四男)
氏名・号  良犢(よしうし)、快慶、号は観山、俳号は星海
 良寛の弟(四男)の宥澄は明和七年(一七七〇)良寛が十三歳の年に生まれた。宥澄も長じて橘屋の菩提寺で出雲崎町住吉町にある真言宗円明院(えんみょういん)の第八世快雅和尚により得度、第九世観如房専澄和尚の法弟となった。のち大和の長谷寺で修行し、碩学の誉れが高かったという。
 寛政六年(一七九四)専澄が三十際で示寂したので、二十四歳の宥澄が円明院の第十世を嗣いで快慶と名乗る。
 寛政十二年(一八〇〇)良寛四十三歳の年、弟宥澄(快慶)が没した。享年三十一歳。宥澄が亡くなった頃、夢の中に弟が現れたという良寛の歌がある。
  兄弟(はらから)の阿闍梨(あざり)の身罷りしころ、夢に来て、法門のことなど語りて、覚めて
面影(おもかげ)の 夢に見(まみ)ゆる かとすれば さながら人の 世にこそありけれ