良寛関係人物 タ行 タ

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関係人物 タ

大機和尚 だいきおしょう

大舟和尚 だいしゅうおしょう

大而宗龍 だいにそうりゅう

大忍国仙 だいにこくせん

大忍魯仙 たいにんろせん

たか →  山本たか やまもとたか 良寬の妹(次女

高島伊八郎 たかしまいはちろう

竹内源右衛門 たけうちげんえもん

橘香 たちばなかおる→ 山本香  やまもとかおる 良寛の弟(三男)

橘彦山 たちばなげんざん

橘崑崙 たちばなこんろん

橘左門泰雄 たちばなさもんやすお  → 山本以南  やまもといなん

橘新左衛門 たちばなしんざえもん → 山本新左衛門 やまもとしんざえもん

橘新左衛門泰世 たちばなしんざえもんやすよ →  山本泰世 やまもとやすよ

橘新左衛門良胤 たちばなしんざえもんよしたね → 山本左門良胤 やまもとさもんよしたね 

橘中務香 たちばななかつかさかおる → 山本香 やまもとかおる 良寛の弟(三男)

橘宥澄 たちばなゆうちょう → 山本宥澄 やまもとゆうちょう 良寬の弟(四男)

谷川敏朗 たにかわとしろう

種田山頭火 たねださんとうか

【大機和尚 だいきおしょう】
氏名・号  活眼大機
職業  旧与板町(現長岡市)德昌寺の第二十七代住職。
良寛との関係  良寛の葬儀の導師を務める。

【大舟和尚 だいしゅうおしょう】
氏名・号  古岸大舟
生没年  ?~天明七年(一七八七)
出身地・職業  旧白根市(現新潟市南区)茨曽根にある曹洞宗永安寺の第十二世住職。
略歴  永安寺には安永六年(一七七七)から天明七年(一七八七)まで住職として在住し、天明七年七月二十一日に示寂した。享年八十二歳。
 地蔵堂の中村久右衛門の流水亭などで、大舟和尚から詩文など古文辞学を学んだ者に、有願、大森子陽、中村久右衛門、富取長大夫正則がいた。
良寛との関係  良寛が十八歳で出奔した安永四年年、大舟は七十歳であった。師の大森子陽から大舟和尚について聞いていた良寛は、大舟和尚のもとで参禅修行を行った可能性もある。

【大而宗龍 だいにそうりゅう】
 良寛が生涯に三回相見し、良寛の僧としての生き方に大きな影響を与えた大而宗龍(だいにそうりゅう)については、宮栄二氏の論文(『越佐研究』第三十八号昭和五十二年、『良寛研究論集』)や大島晃氏の『大而宗龍伝』にくわしい。それらによると、大而宗龍は、悦巌素忻の「悦巌之四竜」といわれた四人の俊傑の一人であった。生まれは上野(こうづけ)国で、良寛より四十一歳年長である。群馬県下丹生村(現富岡市)の永隣寺の賢隆長老の弟子となり、その後、紫雲寺(現新発田市)の観音院、巻町(現新潟市西蒲区)の万福寺、加賀の天徳院時代の悦巌に侍して修行した。宝暦七年(一七五七)悦巌から嗣法した。時に宗龍四十一歳。「貧の家風」を継ぎ、当時の僧としては名利に拘らない清潔な徳の高い人物であった。放身捨命の念を常に持ち続け、献身的な衆生済度の実践を生涯貫いた。寛政元年(一七八九)観音院で示寂、享年七十三歳。
 宗龍の生き方の特色は次のとおり。
○ 寺の住職となってもそこに安住することなく、数年もしないうちに住職の座を後継者に譲った。寺を開山してもその名誉は師に譲り、自らは二世となった。
 宗龍は名誉や地位に安住することなく、次から次へと、衆生済度のため、捨身の活動を生涯続けたのである。
 宝暦十二年(一七六二)観音院二世悦巌示寂後、観音院三世を継ぐが、数年と経たたいうちに、観音院を大賢に継がせた。
 また、明和八年(一七七一)横越村(現新潟市江南区)の宗賢寺の十世を継ぐが、翌年、宗賢寺を十一世の円宏実融に継がせた。
  さらに、安永五年(一七七六)飛騨高山の大隆寺を再興した。悦巌を開山とし、宗龍自らは二世となったが、安永八年(一七七九)大隆寺を三世笠翁恵林に継がせた。
○ 生涯清貧の乞食僧であることを貫いた。
 宗龍は極貧とも言える乞食(こつじき)僧の生活を生涯貫いた。寺に住んでもすぐに出て、山中の草庵に住んだり、石経供養などのための勧進を行い、托鉢を続けた。
 安永元年(一七七二)飛騨唵摩訶(おんまか)山の大盤石に戒名と石経を奉納する願文を書し、これに「願主越後国常乞食僧竜」と記した。安永四年(一七七五)には、『安養講』を著し、これに「諸国乞食僧宗龍」と記している。その後、安永五年(一七七六)飛騨高山の大隆寺を譲り受けたが、すぐその年には、飛騨唵摩訶山での本願の石経供養と大般若(はんにゃ)経真読場建設の成就のためには、寺には住まず、山居して露命を繋ぐだけであり、イモよりもほかに一米もなしという生活を始めたのである。
 「寺持ちの心あらば大法弘通(ぐつう)にはあるべからず。大法弘通の大願ある人は古より雑食淡白に難苦中にありと見えたり。」と弟子の恵林への手紙の中で述べている。
  大隆寺に残された宗龍の遺品に「糞雑衣(ふんぞうえ)」一領がある。糞雑衣とは道ばたに落ちているようなぼろ切れを継ぎ合わせて作った僧衣のことである。この糞雑衣を収めた箱に宗龍自筆の裂が貼付されており、次の内容の文が書かれている。なお原文は漢文である。
「この九条大福田衣は、宗龍が(加)賀の天徳(院)にあって首座と為れるとき、諸処に棄て置きたる古雑布を拾い集めてこれを造り、涅槃衣と為す。蓋(けだ)し、首座は出世の始めとなる故に名聞の浮念を除かんと為し、糞雑衣を大福田とするものなり。児孫の驕(おご)りを誡(いまし)め、(宗)龍の無徳無福を表す (宗)龍書。」
○ 生涯にわたって、全国各地で授戒会(じゅかいえ)を六十四回も開催し、民衆を教化(きょうけ)した。国別では越後二十、武蔵十五、上野七、飛騨六、美濃三、三河三、安房二、下総・相模・上総・下野・信濃・越中・羽前・近江各一となっている。
 天明五年(一七八五)六十九歳の時に中気(脳卒中)を起こしたが、その病気療養中も三回もの授戒会の戒師を勤めた。
○ 石経蔵の建設と石経奉納などに、数多く取り組んだのである。生涯で、判明しているだけで六箇所(廣見寺、唵摩訶山、林昌寺、長松寺、日本寺、廣岳院)で石経供養を行っている。
 明和五年(一七六八)には、秩父の広見寺で大般若石経書写の大業を興した。
  明和七年(一七七〇)、一年がかりの難工事のすえ、固い岩盤を掘削し石経蔵を造営し、百ヶ日の大般若経石経書写奉納の大願を成就したた。
○ 貧民救済の悲願をもっていた。 
  天明七年(一七八七)、宗龍晩年の七十一歳のとき、関東諸檀那衆にあてた麦托鉢への寄進を懇請した連達状に、飢饉などで横死した無縁非業死の者に幾重にも慈悲心を持ち、無福無縁の者を助けるため法事をしたいであるとか、飢えで死にそうな者がいれば寄進に及ばず助けたまへなどと書くなど、宗龍が自ら貧民と苦しみをともにしながら、飢餓時における貧民救済に身を捨てて最後の情熱を傾けた。
○ 生涯にわたって、安居(あんご)を多く開催し、雲水の育成を図った。授戒会と同時に開くことが多い。生涯で三十三回も開催したが、国別では、越後十六、上州四、江戸を含む武州三、飛騨・美濃・三州で各二、相州・下野・信州・安房各一となっている。総参加者は千七百四十余人。

【大忍国仙 だいにこくせん】
 享保八年(一七二三)、埼玉県岡部村の松原氏の出身。清涼寺第九世高外全国の弟子となった。全国は「鬼全国」と呼ばれたほど厳しい修行で知られた。
 三十歳で和尚位へ進み、町田市の大泉寺、神奈川県愛川村の勝楽寺などの住職を務めた。
 明和六年(一七六九)、四十七歳の時、円通寺第十世となった。
 安永八年(一七七九)、国仙五十七歳の時、出雲崎町光照寺の玄乗破了の晋山江湖会の西堂と授戒会の戒師に招かれ、ここで良寛を出家得度させ弟子とした。国仙は生涯に、玄乗破了、圭堂国文、嫩蘂(どんずい)仙桂などの三十一人の弟子を育てたが、良寛は二十九番目の弟子である。             
 大忍国仙会下の禅風について、佐橋文壽氏は「良寛の宗教-禅者から聖へ」(『良寛学入門』)の中で、次の①から③が融合したものと想像できると述べている。
① 看話(かんな)禅(臨済)、黙照(もくしょう)禅(曹洞)の済洞の区別にこだわらない瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)(道元禅師 四世の法孫)の禅風
② 十七世紀中葉、明の道者超元、隠元(いんげん)隆琦(一五九二~一六七三)らが伝えた看話禅に念仏を加えた黄檗(おうばく)禅、念仏禅の禅風
③ 『正法眼蔵』の提唱に基づく道元禅の禅風
 良寛は参禅に励むとともに、師国仙から、法華経などの仏典や碧巌録(へきがんろく)などの禅の古則を学び、一定の境地に進んだ時点で道元の『正法眼蔵』も学んだ。良寛の騰騰任運、随縁の思想は大忍国仙から学んだものと思われる。
  国仙は優れた書をかき、和歌を詠み、この点でも良寛に影響を与えた。
 良寛がある日、師国仙に尋ねた。「如何なるか和尚の家風」。師は「一曳石(えいせき)、二搬土(はんど)」と答えた。
 「曳石」は、碧巌録四十四則にある。馬祖道一(ばそどういつ)の法嗣の帰宗智常(きすちじょう)が、ある日、外でみんなが作務をしている時、大衆の監督役の僧に訪ねた。「今日の作務は何か」「石臼曳きです」「石臼を曳くのはいいが、真ん中の心棒は曳くなよ(不動の菩提心は動かすなよ)」
 「搬土」は、唐末の木平善道(ぜんどう)は新到(しんとう)(新入り)が来ると、参道させる前に三杯の土を運ばさせて地均しをさせた。ねらいは、道は元々平らであっても、平らだからといって地均しをしないようでは、向上の道はふさがれる。毎日地均しをすることで道はその平らさを保てる。つまり、毎日の修行の積み重ねが大事だということを誡めたという故事による。
 また、良寛は「此の名号を持し、彼の名号を持するや」と尋ねた。師曰く「如何が持するや」。良寛は「南無三世一切仏」と答えた。これは開祖徳翁良高は黄檗禅に参じ、高方丈の内仏壇に阿弥陀如来を祀り、日常念仏を唱えていたことから、師国仙もこの内仏に対して称名念仏していたのではないか。それを奇異に観じた良寛が理由を尋ねたのであろう。良寛が晩年、浄土思想を持つに至った背景には、これらのこともあったと思われる。
 国仙の頂相(肖像画)の讃がある。
  寒山懶随猶当可
  拾得疎慵亦未隣
  頭上青灰三五斗
  分明覿面別無眞
      咦
  瞋多喜少一任撒塵 
 この中に、寒山、拾得、懶、疎慵の語句があることから、国仙は寒山拾得に私淑し、懶、疎慵を志向する思想を持っていたのではないかと思われる。そして、この思想は良寛に引き継がれた。
 寛政二年(一七九〇)、国仙六十八歳の時、三十三歳の良寛に印可の偈を与えた。
 寛政三年(一七九一)三月十八日、円通寺で示寂した。享年六十九歳。
 遺偈は「入魔入仏 六十九年 魔仏を透出す 閑座閑民」であった。

【大忍魯仙 たいにんろせん】
氏名・号
生没年  一七八一~文化八年(一八一一)良寛五十四歳のときに三十一歳の若さでなくなった。
出身地  出雲崎町尼瀬出身。尼瀬の小黒字兵衛の長男に生まれた。
職業  曹洞宗の僧侶。
略歴  十七歳の時に出雲崎町の雙善寺(そうぜんじ)で出家し、のち宇治の興聖寺(こうしょうじ)で修行した。埼玉県深谷市にある曹洞宗慶福寺の住職となった。
良寛との関係  良寛と漢詩を詠みあう友人であった。文化二年(一八〇五)二十五歳で「無礙集(むげしゅう)」を出版。この中に「良寛道人の偈を読む」「良寛道人を懐う」がある。良寛の禅僧としての境地を高く評価したほか、押韻(おういん)や平仄(ひょうそく)といった規則に縛られない良寛の漢詩を弁護した。よき良寛の理解者である。良寛も大忍国仙を思った詩を残している。

【高島伊八郎 たかしまいはちろう】
職業  出雲崎町の町年寄。
略歴  出雲崎の名主・由之の右腕であったが、由之とともに裁判で敗訴し、「役儀取り放ち、過料銭五貫文」の処分を受けた。
良寛との関係   良寛の妹「たか」の夫。

【竹内源右衛門 たけうちげんえもん】
職業  旧寺泊町(現長岡市)吉(よし)の百姓代。
良寛との関係  小林与三兵衛(一枝)の日記に、与三兵衛が文政九年(一八二六)五月に良寛を訪ね、寺泊町吉(よし)の百姓代・竹内源右衛門が「良寛のために新しい庵を作りたい」との旨を告げたが、良寛は「前よりありし庵ならよろしかれども、新しく造るには、いや、」と申され候という話が書かれているという。

【橘彦山 たちばなげんざん】
良寛との関係  三峰館時代の良寬の学友。橘崑崙(茂世)の兄。文化八年(一八一一)に出版された『北越奇談』(橘崑崙著)の良寛についての記述の中に、彦山が寺泊の郷本の庵に良寛がいるかどうかを確かめに行き、壁上の漢詩の文字を見て、文孝(良寛)の住居と確信したという話がある。

【橘崑崙 たちばなこんろん】
氏名・号  名は橘茂世、号が崑崙
生没年
出身地  三条の人。大森子陽の親戚。
職業  作家。
略歴  文化八年(一八一一)『北越奇談』六巻を著して出版。
良寛との関係  『北越奇談』に良寛についての記述がある

谷川敏朗 たにかわとしろう(1929~2009)良寬研究家
 谷川敏朗は昭和四年に白根市(現新潟市南区)に生まれた。昭和二十八年、東北大学文学部卒業、新潟県立中央高等学校など、宮城県と新潟県の高校教諭を経て、新潟大學人文学部非常勤講師、新潟女子短期大学非常勤講師も勤めた。教師になってから、出雲崎に近い西越高校に赴任したことが良寛との一期一会の機会になった。渡辺秀英とともに戦後を代表する良寛研究家であり、多くの著書と論文がある。特に書誌に造詣が深い。昭和五十五年の『良寛伝記・年譜・文献目録』は、良寛に関して発表された一切の伝記・文献・著作資料およそ三千八百五十編を精力的調査によって網羅し、年次に沿って著者・文献名・発行所を記載した力作である。昭和五十年の『良寛の生涯と逸話』は最初の編年体の伝記であった。編著書としては、地元新聞に二十年にわたり掲載された良寛関係論文を収録した異色ともいえる『良寛論考』がある。全集とも言える平成十年発行の『校注良寛全歌集』『校注良寛全詩集』『校注良寛全句集』『良寛書簡集』を著実したほか、平成十八年に刊行された最新の良寛全集である『定本良寛全集』第一巻詩集、第二巻歌集、第三巻書簡集・法華転法華讃を、内山知也、松本市壽とともに編集した。現在最も詳細な信頼できる良寛全集である。良寛遺墨の集大成である平成五年の『良寛墨跡大観』を中心となって編集した。また、『良寛の生涯』『良寛の逸話』『良寛の旅』『良寛の名歌百選』『良寛詩歌百選』などの一般向けの本も多く著述する一方、子供向けの『良寛さまってどんな人』や英訳の付いた国際版『絵童話りょうかんさま』なども著述し、良寛の魅力の紹介に尽力した。

 さらに、全国良寛会常任理事として、良寛顕彰にも精力的に活躍した。昭和五十八年に新潟県教育委員会の主催も元に行われた「良寛のこころ」と題する連続講座の講演録は、今でも良寛の入門書として、広く配付されている。平成十二年には、永年にわたる良寛の研究や顕彰の活動が評価され、芸術・文化部門の新潟県知事表彰を受賞された。平成二十一年、七十九歳で逝去された。和顔愛語を絵にしたような人柄が愛され、多くの人から惜しまれた。氏が収集した膨大な良寛関係の文献は、新潟市立中央図書館「ほんぽーと」に寄贈され、谷川文庫として活用されている。

種田山頭火 たねださんとうか(1882~1940)
 自由律俳句の漂泊の俳人として知られる種田山頭火(さんとうか)は明治十五年、山口県の素封家に生まれた。母が自殺したり、家運が傾き、明治三十七年、早稲田大学文科を中退し帰郷した。大正二年、萩原井泉水に師事し自由律俳句を作るようになった。大正十四年、四十四歳の年、出家得度して、曹洞宗の禅僧になった。翌年からは、托鉢行脚の旅に出るようになり、その後の人生は定住と行脚の繰り返しだった。昭和十五年、松山の草庵で示寂した。享年五十九歳。

 次の句等生涯で八万句以上の俳句を作っている。

分け入っても分け入っても青い山

鉄鉢の中へも霰

まっすぐな道でさみしい

うしろすがたのしぐれていくか

どうしようもない私が歩いている

生死の中雪ふりしきる

 道元を尊敬した山頭火は道元を尊敬した良寛も同じく尊敬した。日記に、「良寛遺墨を鑑賞する。羨ましい、そして達しがたい境地の芸術である」と本心を吐露している。また、山頭火の遺墨の中に、良寛の漢詩「花無心招蝶 蝶無心尋花 花開時蝶来 蝶来時花開」を揮毫したものがある。昭和十一年にも、全国各地を旅している。二月には岡山県の円通寺に立ち寄り、次の句を詠んだ。この句碑も立っている。

岩のよろしさも良寛さまのおもひで

 その後に、信州から越後にも来ている。六月一日、長岡の友人で写真館を営む小林銀汀から写真を撮ってもらった。数少ない山頭火の肖像写真としてよく知られているものである。六月二日と三日に、敬愛する良寛の遺蹟巡りに出かけ、良寛墓碑、良寛堂、寺泊、国上山に立ち寄り、次の句を吟じた。

あらなみをまへになじんでゐた仏

青葉分け行く良寛さまも行かしたろ

水は滝となつて落ちる荒波

 五合庵のすぐ下の本覚院に山頭火の句碑があり、「青葉分け行く」の句と「水は滝となつて」の句が彫られている。出雲崎の夕日の丘公園にも山頭火の句碑があり、「あらなみを」の句と次の句が刻まれている。

おもひつめたる心の文字は空に書く

 山頭火は「良寛和尚は空中習字をしたといふ、よし、私は空(そら)へ句を書こう!」と日記に書いている。おもいつめたる」の句は良寛の、毎朝空中に指で『千字文』一巻の字を書いて習字の練習をしたという空中習字の逸話を踏まえている。