関係人物 カ

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関係人物 カ

快慶 かいけい → 山本宥澄 やまもとゆうちょう 良寬の弟(四男)

海津間兵衛 かいづまひょうえ

香 かおる → 山本香  やまもとかおる 良寛の弟(三男)

桂誉章 かつらたかあき

亀田鵬斎 かめだぼうさい

柄沢栄清 からさわよしきよ

観国和尚 かんこくおしょう

観山 かんざん → 宥澄 ゆうちょう 良寬の弟(四男)

 

【海津間兵衛 かいづまひょうえ】
氏名・号  号は竹丘
出身地  旧分水町(現燕市)竹ヶ花
職業  村上藩の武士
良寛との関係  三峰館時代の学友。良寛はよく海津宅を訪れ、飯を食べさせてもらう。「海津氏宅即事」という詩がある。

【桂誉章 かつらたかあき】                                      氏名・号  橘屋の養子・新次郎となるが、その後長男が出奔したため、連れ戻されて、桂家四代目六郎左衛門誉章となる。幼名は六又。
生没年  一七三四~一七九六
出身地  新津市(現新潟市秋葉区)
職業  新津市の庄屋。第三代誉春(一七〇二~一七七四)の時、新発田藩領新津組二十二ヵ村の大庄屋となり、名字帯刀の家柄であった。桂家は代々敬神尊皇を家風とした。
略歴及び桂家  良寛の母のぶが最初に橘屋に嫁いできたときの夫が、桂家の次男から橘屋の養子となった新次郎であった。桂家の長男が出奔したため、新次郎は桂家に戻り、桂家第四代の誉章(たかあき)となった。
 四代誉章(たかあき)は京に出て、松岡忠良について垂加神道を学び、在京中朝権恢復の運動にも関わったという。帰国後、書籍数万巻を収集して園内に書庫を建て、万巻楼と称した。第五代は六郎左衛門成章(しげあき)。第六代誉正(たかまさ)(一七八二~一八五〇)は東吾(とうご)と称し、平田篤胤の門に入り、本居内遠、大邦隆正とも親交を結んだ。天保元年(一八三〇)十月、新津の大庄屋桂誉正(たかまさ)の妻とき(東起子)から、ときの和歌の師匠である由之を介して、病床の良寛に石榴(ざくろ)が七個贈られた。そのお礼に良寛が詠んだ歌が三首ある。
  紅(くれなゐ)の 七の宝を もろ手もて 押し戴(いただ)きぬ 人の賜物(たまもの)
  いつとても 良からぬとには あらねども 飲みての後は あやしかりけり
  掻(か)きて食べ 摘(つ)み裂いて食べ 割りて食べ さてその後は 口もはなたず           新津の桂誉重(たかしげ)(一八一七~一八七一)は同家七代で、慎吾と称し、父祖伝来の伝統を受けて民政の実を挙げるとともに一層国学に傾倒し、鈴木重胤(一八一二~一八六三)の高弟となり、出羽庄内の大滝光憲ともに東国における国学扶植の中心的存在であった。その重胤の一大後援者として畢生の大著『日本書紀伝』一四七冊の校閲者となった。彼はまた佐藤信渕より農政を学び、自ら『済生要略(さいせいようりゃく)』、『世継草摘分(よつぎぐさつみわけ)』などの書を著し、国学の教化によって産業経済の実を図ろうとした。
良寛との関係  のぶは橘屋の血筋を護るために新次郎と生き別れになって、養女として橘屋に残り、秀と名を換え、婿養子の以南と再婚し、良寛を生んだ。

【亀田鵬斎 ぼうさい】
生没年 一七五二~一八二六
 亀田防砂は豪放磊落(らいらく)な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものであった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。
 松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると、幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布された。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、塾を閉じ、50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流した。
 文化五年(一八〇八)、妻佐慧が没した。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れ、そのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。
 文化六年(一八〇九)儒者、書家として有名な亀田鵬斎が越後に来遊し、燕の神保家に寄寓した。
 文化7年(一八一〇)佐渡に渡り、再び越後に戻った。彼はこの間に、燕の神保子襄、新津の桂東吾、与板の新木周富、地蔵堂の中村権右衛門、国上の原田鵲斎、渡部の阿部定珍、牧ヶ花の解良叔問、出雲崎の京屋、敦賀屋などと親交を結んでいる。出雲崎に三回訪れ、鳥井家に滞在する。
 そして、これらの人々の多くは良寛の知己であり、外護者であったから、亀田鵬斎は自然と良寛の名声を耳にし、国上山の五合庵に良寛を訪問した。
  五合庵を訪れた鵬斎は良寛と意気投合したらしく、お互い相手のことを述べた漢詩がある。 良寛は鵬斎と逢ったときのことを「有懐四首」という題の漢詩に詠っている。詩の中で、「鵬斎を才気があって志が大きくこだわらない人と評し、賑やかな町でばったり出会い、仲良く手を取りあって大笑いした」と言っている。
 西郡久吾氏の『北越偉人 沙門良寛全伝』にある。「鵬斎人に語りて曰く、吾良寛に遇ひて草書の妙を悟り、我が書此より一格を長ぜりと」、「北越良寛は瀟洒無為、喜撰以後の一人なりと」など。江戸の著名な文人であった亀田鵬斎が良寛の書を高く評価したことから、良寛の書は越後でも評価されるようになった。
 鵬斎と良寛の逸話は山ほどあるが、ほとんどは越後の良寛の学識の深さに、江戸の高名な儒者である鵬斎が兜を脱ぐという内容であり、その多くは越後人の身贔屓(みびいき)の創作であろう。
 鵬斎が六十歳で江戸に戻ると、その書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求め、一日の潤筆料が五両を超えたという。

【柄沢栄清 からさわよしきよ】
氏名・号  通称は兵右衛門(ひょうえもん)
生没年  一七七四~天保十三年(一八四二)享年六十九歳
職業  上桐の庄屋。
略歴  解良家十代叔問の弟。十一代を継ぐべき孫右衛門栄忠は家産を納める能力が乏しかったので、叔問を助けて家事を取り仕切った。栄清は後に旧和島村(現長岡市)上桐の柄澤家に養子に入り、柄澤家中興の祖となった。
良寛との関係  良寛の百ケ日法会の日の栄清の日記の中に、追悼の歌「咲きしよと見るにたもとをぬらしけり去年にかはらぬ宮の藤波」とともに、良寛の没年月日と享年を「天保二卯年初春六日、七十四歳にて島崎村のとや元右衛門方にて寂す」と記している。

【観国和尚 かんこくおしょう】                                    職業  燕市の溝古新の清伝寺の第八代目住職。
良寛との関係  良寛は観国から詩集を借りる。良寛禅師奇話第十七話(良寛に囲碁で負けた富取家主人に勘当されてしょんぼりしている良寛を解良家の主人が一緒に謝りに行ったという話を観国和尚が語ったという逸話)にも名前が記載されている。

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