関係人物 シス

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関係人物 シ ス

証聴 しょうちょう

神保杏村 じんぼきょうそん

心龍尼 しんりょうに

管江真澄 すがえますみ

鈴木文臺 ぶんたい

鈴木牧之 すずきぼくし

証聴 しょうちょう                                          旧寺泊町蛇塚の僧。晩年の良寬の弟子だったと思われる。『良寬禅師碑銘併序』を書き残したが、墓碑には刻まれなかった。詩歌に優れ、貞心尼とも親交がある。良寛からの手紙が二通残る。

【神保杏村 じんぼきょうそん】
氏名・号  名は宣。字は子孝、子襄。通称は佐五右衛門、号は杏村。
生没年  一七七六~天保二年(一八三一)良寛と同じ年に亡くなる。
出身地・職業  燕市の素封家。
略歴  伯父の柳坡の養嗣子となる。千二百町歩の田を所有する富豪。文墨を好む。
良寛との関係  良寛、亀田鵬齋、巌田洲尾、大窪詩仏、島梅外らと交流する。

【心龍尼 しんりょうに】
生没年  天保十一年(一八四〇)に没した。
職業  尼僧。
略歴  良寛の弟子貞心尼が文政三年(一八二〇)二十三歳の年に修行を始めた閻王寺の尼僧。貞心尼の最初の師匠になった。妹に眠龍尼(みんりょうに)がいる。貞心尼の墓のある洞雲寺の住職・泰禅と兄弟だった。

【管江真澄 すがえますみ】
氏名・号  字は常冠、通称白井秀雄、英二、永治といった。
生没年  一七五二~文政十二年(一八二九)没した。享年七十七歳。
出身地  三河。
職業  書家。文人。
略歴  国史に精通し、本草学、医術にすぐれ、書道をもって、各地を遊歴した。晩年は秋田に住んだ。
良寛との関係  菅江真澄の遊覧記『来目路(くめじ)の橋』に、天明四年(一七八四)七月一日に信濃の松本に近い湯の原村で、国仙とその僧衆に出逢ったことが書かれている。その僧衆の中に良寛がいたと思われる。国仙は真澄の叔父の法兄にあたる人だという。
 由之は文政四年(一八二一)東北地方の旅に出て、秋田市で菅江真澄と会っている。真澄は由之から良寛の話を聞き、『高志のものがたり』の中に「国上の良寛(てまりほう)し」とか「国上山の手鞠上人良寛」などと書いている。

【鈴木文臺 ぶんたい】
氏名・号  鈴木陳造、文臺
生没年  一七九六~一八七〇
出身地  吉田町(現燕市)粟生津(あおうず)の人。
職業  幕末の儒者、教育者。
略歴  長善館をつくり多くの人材を育成する。明治三年、七十五歳で亡くなるまで、四百三十五人の門人に教えた。
良寛との関係  良寛に心酔し、良寛の論評を多く書き残した。文化十年(一八一三)、陳造(文臺)の兄・隆造(桐軒)は医者で詩人であった。桐軒は良寛の詩集を刊行したいと考えていたが、良寛は認めなかったようである。追加で記述予定

【鈴木牧之 すずきぼくし】
氏名・号
生没年  一七七〇年生まれ、一八四二年死亡
出身地   塩沢町(現南魚沼市)の人。
職業   織物商人。
略歴   『北越雪譜』を著す。多くの著名な文人と交わる。
良寛との関係  木村元右衛門が鈴木牧之に宛てた天保元年(一八三〇)十二月十一日付けの書簡の中に、「兼てご承知の通りの御方故、一向あいそもなき體に御座候得共」とあり、牧之は良寛の書を求めて良寛を一回訪ねたが、良寛は無愛想な対応をしたものと思われる。その後、牧之は僧・義諦を木村家・良寛との間に立てて、お願いを続け、ようやく、牧之自筆の山水図に良寛から次の讃を書いてもらった。
 壮年曾極佳妙地   壮年曾(かつ)て極(きわ)む佳妙の地
 老来頻動遍舟興   老来頻(しきり)に動く遍舟の興