関係人物 チツテ

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関係人物 チ ツ テ

敦賀屋鳥井家 つるがやとりいけ

貞心尼 ていしんに

天華上人 てんげしょうにん

【敦賀屋鳥井家 つるがやとりいけ】
 敦賀屋鳥井家は橘屋山本家、京屋野口家とともに出雲崎御三家といわれる。出雲崎町では町年寄であったが、財力では橘屋を上回る富豪であった。住吉町の敦賀屋の邸宅の跡は現在「芭蕉園」になっている。京屋の親戚であった敦賀屋は橘屋との間で確執があり、数々のトラブルがあった。
○ 宝暦十一年(一七六一)良寛四歳 神輿事件(祭礼の神輿の行列で町年寄の家の前で子供が芸を披露する習わしであったが、二十八歳の以南が敦賀屋の前を素通りさせた事件)で、敦賀屋が橘屋を代官所に訴えた。以南は行き過ぎがあったということで注意を受けた。
○ 安永四年(一七七五)良寛十八歳 七夕参賀事件(良寛の三峰館の学友で富取家から敦賀屋に婿入りしたばかりの長兵衛が、帯刀して代官所の表玄関で七夕の参賀を行ったことに対して、以南が長兵衛を詰責して代官所出入り禁止を命じた事件)で、長兵衛は代官所に橘屋を訴えた。以南は代官所から説諭され、敦賀屋は公然と正装で参賀することが許された。
○ 文化元年(一八〇四)良寛四十七歳 出雲崎の農民(背後に敦賀屋)が使途不明金で橘屋を訴え、名主を敦賀屋へ交替させるよう訴えた。
○ 文化二年(一八〇五)良寛四十八歳 前年の裁判で代官所では埒が明かないため、水原の奉行所へ駆け込み訴訟する。    
○ 文化七年(一八一〇)良寛五十三歳 橘屋に敗訴の判決が下り、由之は家財取り上げ、所払い(追放)となって、橘屋は没落した。このときの敦賀屋は長兵衛が文化五年に六十歳で亡くなっており、富取家から養子に入っていた直右衛門が跡を継いでいたが、この年隠居し、十一歳の長男兵四郎に家督を譲った。

【貞心尼 ていしんに】
 晩年の良寛の弟子となって交流した貞心尼は、寛政十年(一七九八)、長岡藩士の娘奧村マスとして生まれた。文学好きな少女だったようである。
 十七歳の時、小出の医師関長温に嫁いだが、子供ができなかったこともあってか、二十二歳の時に離婚した。
 二十三歳の時、柏崎の閻王寺(えんのうじ)で、剃髪し、心竜尼(しんりょうに)・眠竜尼(みんりょうに)の弟子となり、尼としての修行を始めた。
 親しかった与板の和泉屋山田家から、和歌や書にたけた徳の高い僧侶という良寛の噂を聞いたの、是非ともお会いして、仏道のことや和歌のことを学びたいと思うようになったようである。
 その機会を得るためにか、文政十年(一八二七)貞心尼三十歳の年の春、七十歳の良寛のいる島崎に近い、長岡の福島(ふくじま)の閻魔堂(えんまどう)に移り住んだ。
 その歳の秋に初めて良寛と会って以来、和歌を唱和するなど、良寛と貞心尼との間で純真で清らかな心の交流が、良寛が示寂するまで続いた。
 良寛没後四年目の天保六年(一八三五)貞心尼三十八歳の年、良寛の和歌を集めた『蓮(はちす)の露』を完成させた。これは最初の良寛歌集である。
 貞心尼はその後、柏崎で暮らし、明治五年(一八七二)没した。享年七十五歳。

【天華上人 てんげしょうにん】
 出雲崎町羽黒町に浄土真宗浄玄寺があった。平成二十六年に良寛記念館のすぐ近くに移転している。
 浄玄寺の二十世曽根智現に良寛の二十歳年下の妹みかが嫁いでいる。曽根智現は権律師に任じられ僧官一級を賜って本願寺の嗣講師に補せられた学僧であった。
 その浄玄寺の天華(てんげ)上人と良寛は親しくしており、題が「秋日天華上人と雲崎(うんき=出雲崎)に遊ぶ」、首句が「夫人之在世」の漢詩や、題が「天華上人が歳末に貽(おく)らるるに和する作」首句が「人世可怜過隙駒」の漢詩がある。
 題が「秋日天華上人と雲崎に遊ぶ」の詩の中に、「同調復(ま)た相得たり 誰か主と賓(ひん)とろ論ぜん」の句があり、良寛は同じ心の友人を得た喜びを詠んでいる。
 題が「天華上人が歳末に貽らるるに和する作」の詩は、天華上人がまず平声(ひょうしょう)陽韻を踏んだ詩を良寛に贈り、これに対して良寛は同じく平声陽韻(場、霜、香、岡)の韻字を用いて作って返した詩である。天華上人、良寛ともに詩文に精通していたようである。
 では、この出雲崎で楽しい時を過ごした天華上人とは果たして誰であろうか。私は曽根智現こそ天華上人ではないかと考えている。