関係人物 ユ ヨ
【義成和尚 よしなりおしょう】
生没年 一七八八~安政二年(一八五五)二月十五日没。享年六十七歳。
職業 旧寺泊町(現長岡市)夏戸の本光寺住職。
良寛との関係 「金証丸」という胃腸薬を良寛に与えている。その薬代を良寛に返したことにたいする良寬の礼状があり、義成の四十歳の賀を言祝ぐ和歌が書かれている。「ことしより君がよはひをよみてみむ 松のちとせをありかずにして」
【吉野秀雄 よしのひでお】(1902~1967)
昭和を代表する歌人吉野秀雄は明治三十五年群馬県高崎市に生まれた。両親は新潟県出身である。
慶応大学経済学部に進んだが、大正十三年、肺結核を病み中退。闘病生活を送りながら、国文学を独修し歌作りを始めた。
いずれの花壇や結社にも属さなかったが、会津八一の『南京新唱(なんきょうしんしょう)』の序に書かれた良寛を敬仰する八一の熱き思いに感動し、会津八一の唯一の弟子となった。昭和五年二十五歳の年、佐藤耐雪を頼って出雲崎に赴き、良寛百年祭典に列し、島崎・国上山等の良寛遺蹟を巡った。万葉集と良寛は早くから傾倒した生涯のテーマであった。良寛の歌を著述した単行本は四冊ある。『良寛禅師自選歌集「ふるさと」釈文』(昭和二十一年)『良寛歌集』(同二十七年)『良寛和尚の人と歌』(同三十二年)『良寛 歌と生涯』(同五十年)である。『良寛歌集』の編さんは朝日新聞社からの依頼であったが、相馬御風と会津八一の推挙によるものだと知って、名誉に思い、多きに張り切った。良寛の歌の一首一首の各句ごとに「古歌との対比カード」を作り、『国歌大観』の「索引部」で同じ句の有無を調べ、あればその古歌をカードに書き写すという作業を行った。良寛の著作も多い中野孝次は、良寛の歌の解釈では吉野秀雄が最もすぐれていると評した。吉野秀雄に良寛への思いを詠った歌は多い。
貼りまぜの屏風のすその消息(せうそく)は畳に這ひてわれは読みけり
良寛堂にいまさらにおもふ橘屋京屋敦賀屋あますなくむなし
掛網の錘(おもり)触れ合ふ音すずし良寛堂の裏浜来れば
この歌の歌碑が良寛堂の海に面した場所にあるが、いつ誰が建立したのか解らない歌碑があってもいいのではということで、碑陰には何も刻まれていない。
遅魯訥拙頑漫迂癡愚鈍(ちーろーとつせつぐわんまんうちーぐーどん)きみがごときは吾(あ)が恋ひやまず
蚊㡡(かや)の外(と)に片足延べて生きの血を夜さ夜さ庵(いほ)の蚊に施しき
うるわしき尼なりきとふ山藤の短き房(ふさ)を墓にたむけぬ
昭和三十四年読売文学賞。同四十二年迢空賞を受賞したが、同年六十五で鎌倉に病没した。