関係人物 マミムメモ

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関係人物 マミムメモ

三浦屋幸助 みうらやこうすけ → 遠藤幸助 えんどうこうすけ

みか → 山本みか やまもとみか 良寬の妹(三女)

宮川禄斎 みやがわろくさい

三宅相馬 みやけそうま

三輪権平 みわごんぺい

三輪左一(左市) みわさいち

眠龍尼 みんりょうに

 むら → 山本むら

 

【宮川禄斎 みやがわろくさい】
氏名・号  名は需、字は其義、通称は儀右衛門、号は禄斎
生没年  一七八四~弘化二年(一八四五)二月没。享年六十二歳。
出身地  柏崎から紫雲寺に移りすむ。
職業  豪農、文人、画家。
略歴  農業を継ぐかたわら風雅を好み、館柳湾、巻菱湖、原松洲らと交わる。詩、書画に優れた。
良寛との関係  文政十三年(一八三〇)七月に、良寛の肖像画を直接描く。

【三宅相馬 みやけそうま】
氏名・号  名は安懿、字は徳卿(とくけい)、号は瓶斎(へいさい)、通称を相馬といった。
職業  村上藩士、漢詩人。
略歴・良寛との関係 前田喜春氏の「良寛と村上藩士三宅相馬」(『良寛』第二十五号平成六年)によれば、村上藩士の三宅相馬は良寛より四十三歳も年少であった。当時、三条から国上山あたりは村上藩の飛び地であった。三宅相馬が十六歳という若さで、郡吏として三条に赴任し、九年後の文政八年(一八二五)に三条を去るとき、六十八歳の良寛は二十五歳の三宅相馬と相見し、和歌を二首贈った。この人なら、領民を慈悲の心で治めてくれるのではないかと期待したのであろう
  うちわたす 県司(あがたつかさ)に  もの申す ものと心を 忘らすなゆめ 
(うちわたす…衆生を済度する)
(心…領民を慈しむ心)
(忘らすなゆめ…決して忘れないでください)
  幾十許(いくそばく)ぞ 珍(うづ)の御手(みて)もて 大御神(おおみかみ)  握りましけむ 珍(うづ)の御手    (みて)もて
(幾十許ぞ…どれほどか多く)
(珍の…尊く立派な)
(大御神…厳かな神は)
(握りましけむ…人々を治めただろうか)
 この歌を書いた良寛の書に、鈴木文台の題言が合装されており、その中に次の記述がある。
「…昔年三宅君郡吏たりしの日、師之と相見し、席上書して以て之を贈る。蓋(けだ)し師の三宅君の年少敏才なるを見、当世吏たる者の貧墨(ひんぼく)の風に倣(なら)わんことを恐れ、之を諷(ふう)せし者なり。…」
 その後、清廉潔白、質直廉勤であった三宅相馬は良寛の期待によく応え、郡吏から郡奉行、典客兼砲術師範となり、四十歳ころから儒学に励み、詩文をよくした。五十一歳の時、いったん辞職するが、五十八歳の時、藩の財政を救えるのは相馬しかいないということで、やむなく大阪に派遣されて、藩債の処理に当った。万延元年(一八六〇)六十歳で没した。

【三輪権平 みわごんぺい】
氏名・号   三輪権平長凭(ながより)  
生没年  一七九六~嘉永五年(一八五二)九月二日没。享年五十六歳。
職業  旧与板町(現長岡市)の豪商。屋号は大坂屋。大坂屋三輪家の第九代。
良寛との関係  良寛と親交があった。九代権平から良寛は『万葉集略解』を借りた。権平宛て良寛の書簡が八通ある。その大半は借用依頼と礼状である。

【三輪左一(左市) みわさいち】
氏名・号  佐市喜長(よしなが)ともいう
生没年  不詳~文化四年(一八〇七)良寛五十歳の年の五月一日に没した。
出身地・職業  与板町(現長岡市)の大坂屋三輪家は回船問屋で大名に金を貸したほどの大豪商であった。左一は家業の廻船問屋、商業に尽力し、大坂での米の取引で活躍した。
略歴  大坂屋三輪家五代多仲長旧(ながもと)、六代多仲長高、七代多仲長泰、八代九郎右衛門長行、九代権平長凭(長泰四男)と続いた。
 五代三輪多仲長旧の三男で、六代多仲長高の弟が三輪左一。七代多仲長泰の妹で左一の姪が維馨尼である。
良寛との関係  大森子陽の学塾・三峰館時代の親友。仏教に対する帰依も深く、二十年間良寛に参禅し、仏法の弟子となった。
 良寛は左一没後に、「左一の訃至る」と題した漢詩を詠んでいる。その中に、「我に参ずること二十年」という句がある。左一が良寛に参じて、修行を積んだ期間が二十年とすると、良寛三十一歳の年、天明七年(一七八七)ということになる。この年、円通寺で修行中の良寛は、紫雲寺の観音院の安居に参加し、宗龍禅師寺と相見しているので、その頃に左一は良寛と会い、良寛に参じて、仏道を学ぶようになったものと思われる。
 良寛の仏道を唯一理解しており、後世に伝えてくれると期待した左一が、良寛より先に亡くなってしまい、良寛の悲しみは非常に深いものがあったことであろう。左一の死を嘆く良寛の旋頭歌がある。
   左一がみまかりしころ                                        
この里に 往(ゆ)き来の人は さわにあれども さすたけの 君しまさねば 寂しかりけり
(さわに…多く)
(さすたけの…枕詞)
(まさねば…おられないので)
 良寛からの手紙が三通残る。

【眠龍尼 みんりょうに】
生没年  天保九年(一八三八)に没した。
職業  尼僧。
略歴  良寛の弟子貞心尼が文政三年(一八二〇)二十三歳の年に修行を始めた閻王寺の尼僧。姉に心龍尼(しんりょうに)がいる。心龍尼・眠龍尼の二人が貞心尼の最初の師匠になった。貞心尼の墓のある洞雲寺の住職・泰禅と兄弟だった。