関係人物 コ

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関係人物 コ

国仙和尚 こくせんおしょう → 大任国仙 だいにんこくせん

五適 ごてき → 中江杜 なかえとちょう

小林一枝 こばやしかずえ → 小林与三兵衛 こばやしよさべえ・よそべい

小林与三兵衛 こばやしよさべえ・よそべい

虎班和尚 こはんおしょう

近藤敬四郎 こんどうけいしろう

近藤万丈 こんどうばんじょう

【小林与三兵衛 こばやしよさべえ・よそべい】
氏名・号  一枝(かずえ)
職業  旧寺泊町(現長岡師)引岡の百姓代。
良寛との関係  与三兵衛の日記に、与三兵衛が文政九年(一八二六)五月に良寛を訪ね、
寺泊町吉(よし)の百姓代・竹内源右衛門が「良寛のために新しい庵を作りたい」との旨を告げたが、良寛は「前よりありし庵ならよろしかれども、新しく造るには、いや、」と申され候という話が書かれているという。
 また、良寛と歌を詠み交わした遺墨が伝わる。
  よのなかをいとひはつとはなけれども なれしよすがにひををくりつつ 良寛
    初めて良寛師の隠居を訪ねて 
  世の中を厭ひてかかる山里の 柴のとぼそのたのしきや君 引岡 与三兵衛

【虎班和尚 こはんおしょう】
氏名・号  姓は新木 古範、固範とも称し、香山と号した。
生没年   ?~一八二四
出身地   北魚沼郡小出町(現魚沼市)の出身。
職業  旧与板町(現長岡市)德昌寺の第二十六代住職。維馨(経)尼の師。
略歴  文化五年(一八〇八)徳昌寺の第二十六代住職となる。
 明版大蔵経を購入した。維馨(経)尼もその購入に尽力した。
 『請蔵南行爛葛藤(らんかっとう)』とは、虎斑和尚が文政元年(一八一八)良寛六十一歳の年、明版大蔵経を請来するために、伊勢松坂まで往復したその苦労を綴った紀行文である。昭和五十五年に与板町の徳昌寺と良寛歌碑保存会によって発行された『請蔵南行爛葛藤』の復刻本の解説編(大谷一雄解読、浅田壮太郞注解)によると、序文編、本文編、跋文編に分けられ、跋文編には良寛の漢詩、由之の和歌、維馨尼の和歌など、二十人の送行餞別の作品が収められている。
良寛との関係  虎斑和尚の募金は大蔵経購入金額に達せず、島崎の能登屋木村元右衛門から不足分を借財して代金を支払った。だが、虎斑和尚は木村家に借金を返済できず、大蔵経の所有権が木村家に移ろうとした。しかし、その両者の間に立った良寛のすすめにより、木村元右衛門は徳昌寺への貸し金を帳消しにした。

近藤敬四郎 こんどうけいしろう(初代全国良寛会会長)

 越後には良寛敬慕者によって、それぞれの良寛ゆかりの地ごとに良寛会を作られていた。昭和五十三年頃、出雲崎町良寛景慕会など九団体が地道な活動をしていた。良寛示寂百五十年の昭和五十三年に、良寛敬慕者や各地域の良寛会が団体を結成して良寛の遺徳を広く顕彰することを目的として、新潟県良寛会が発足した。新潟県良寛会会報「良寛だより」創刊号の巻頭言は宮栄二・新潟県良寛会常任委員長。広井継之助会長代行のあいさつが載った。

 昭和五十五年の総会で、会長に近藤敬四郎氏が就任した。近藤会長は明治四十五年に、長岡市関原の素封家に生まれた。昭和四年に長岡中学校(旧制)卒業後、慶應義塾大学経済学部を経て、一時、第一銀行に勤務したが、昭和十一年に北越銀行に入行した。同年に佐藤耐雪の息女知子嬢と結婚した。太平洋戦争から帰還し、昭和二十五年には直江津支店の支店長となり、業績を大きく伸ばした。銀行では専務取締役等を経て、昭和五十二年に代表取締役頭取に就任。昭和五十四年、近藤会長が設立発起人となり、地元長岡にも「長岡良寛の会」を設立した。昭和五十六年鎌倉に転居した。昭和五十八年に新潟県良寛会は全国良寛会に改称した。「良寛だより」二十一号から全国良寛会の会報となり、初代会長の近藤は巻頭で「各地域の良寛会各人が一丸となって、互いに切磋琢磨し情報を交え、良寛の遺徳顕彰に勉めよう」と述べている。当時全国から会員が急増し八二〇余名となった。

 近藤会長は平成三年四月に七十九歳で逝去されたが、それまでの十一年の長き歳月にわたり、会長の職務を、天職を得たかのように喜びをもって果たされた。外にはすぐれた外交能力を発揮され、無辺の人柄と確固たる意志を秘めつつ、内には融和協調を旨とし、その指導力の止むことはなかった。近藤会長の後の全国良寛会会長は、平成三年から小島寅雄氏、平成十四年から斎藤信夫氏、平成十七年から長谷川義明氏、令和二年から小島正芳氏が務めている。近藤会長の長女反町タカ子氏は、静岡県良寛会に籍を置き、祖父、父と繋がる良寛を熱心に研究されている。全国良寛会の参与でもあり、平成平成二十四年には『良寛堂建立の記録 佐藤耐雪の「用留」を読む』を上梓された。奇しくも令和三年(二〇二一)は良寛堂建立百周年の節目の年である。 

【近藤万丈 こんどうばんじょう】
氏名・号  通称は近藤又兵衛
生没年  一七七六?~嘉永元年(一八四八)没、享年七十二歳。
出身地  岡山県玉島の出身。
職業  国学者、歌人。
良寛との関係 近藤万丈が若かった頃に土佐(高知県)を旅行したときに良寛らしき僧と会った話を『寝覚めの友』に書いた。会った時期について、高橋庄次氏の『良寛伝記考説』には次の記述がある。「(七十歳の万丈が)二十年あまり前に書いた『寝覚の友』には、三十年あまり前の出来事とある。あまりというからにはおおよそ二・三年くらに踏んでおくと、寛政五・六年(一七九三・九四)ころになる」
『寝覚めの友』の記述は次のとおり。
「 おのれ万丈、齢いと若かりし昔、土佐の国へ行きし時、城下より三里ばかりこなたにて、雨いとう降り、日さへ暮れぬ。道より二丁ばかり右の山の麓に、いぶせき庵の見えけるを、行きて、宿乞ひけるに、いろ青く面やせたる僧の、ひとり炉を囲み居しが、『食ふべきものもなく、風防ぐべき襖もあらばこそ』と言ふ。『雨だにしのぎ侍らば、何をかは求めん』とて、強ひて宿かりて、小夜更くるまで、相対して炉を囲み居るに、此の僧、初めに物言ひしより後は、一言も言はず。坐禅するにもあらず、眠るにもあらず、口のうちに念仏唱ふるにもあらず。何やら物語りても、ただ微笑するばかりにて有りしにぞ、おのれ思ふに、『こは狂人ならめ』と。その夜は、炉のふちに寝て、暁に覚めて見れば、僧も炉のふちに手枕して、うまく寝て居ぬ。さて、明け果てぬれど、雨は宵よりも強く降りて、立ち出づべきやうもなければ、『晴れずとも、せめて小雨ならんまで宿かし給はんや』と言ふに、『いつまでなりとも』と答へしは、昨日宿かせしにもまさりて嬉しかりし。ひの巳の刻過ぐる頃に、麦の粉、湯にかきまぜて食らはせたり。
 さて、この庵の内を見るに、ただ木仏の一つ立てると、窓のもとに小さき机据ゑ、その上に文二巻置きたる外は、何ひとつ蓄へ持てりとも見えず。この文、何の書にやと開き見れば、唐刻の『荘子』なり。そが中に、此の僧の作と覚しくて、古詩を草書にて書けるが挟まりてありしが、唐歌習はねば、その巧拙は知らざれども、その草書や、目を驚かすばかりなりき。因りて、笈の内なる扇二つと筆で賛を乞ひしに、言下に筆を染めぬ。ひとつは梅に鴬の絵、ひとつは富士の峰を描きしなりしが、今はその賛は忘れたれど、富士の絵の賛の末に、『かくいふものは誰ぞ、越州の僧了寛書す』とありしを覚えおりぬ。
 その日も、また暮れ近きに、雨は、なお時じくに降りて止まざれば、その夜も昨日のごとく、僧と共に炉の傍らに寝ねしが、明くれば、雨は名残りなく晴れて、日の光輝きぬ。例の麦の粉食らひて、二夜の報謝に、いささか銭を与へけれど、『かかるもの何せん』とて承け引ず。その志にもとらんも本意ならねば、引き換へて紙と短尺とを与へけるをば、喜びて受け納めぬ
  こははや三十(みそ)とせあまり、むかしの事なるが、ちかきとし橘茂世といへるものの著せし北越奇談と題せし書に、了寛は越後の国、その地名わすれたり、橘何某といふ豪家の太郎子なりしとか、おさなき時より書よむを好み、殊に能書なりしが、古人の風を慕ひ、さしも富貴の家を嗣がず、終に世を遁れ行方しれずなりしと、はた某家に有りし時の事もつぱらにしるせしを見れば、かの土佐にて逢し僧こそはと、すずろに其の昔を思ひ出して、一夜寝覚の袖をしぼりぬ。
   こははたとせあまりむかし我それまでの見聞せしこととも書きあつめて寝覚の  友と名づけて一小冊となしもてるを、此頃田中庵の大徳の見給ひて、我も越州の  産なり、了寛和尚なつかしらぬにあらず、此かけるままを写し与えよとあるに、  いなみがたくて、
      弘化二年巳のとしの初夏 
                  椿園のあるじ 萬丈