関係人物 ト

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関係人物 ト

杜澂五適 とちょうごてき → 中江杜澂 なかえとちょう

富川大槐 とみかわたいかい

富取芳斎 とみとりほうさい

富取正則 とみとりまさのり

富取正誠 とみとりまさのり

富取之則 とみとりゆきのり

外山文左衛門 とやまぶんざえもん

 

【富川大槐 とみかわたいかい】
氏名・号  名は直温、字は士良、春風、通称は衛門、号は大槐
生没年  一七九九~一八五五
職業   栃尾市(現長岡市)の検断職。書家。画家。
略歴   江戸や京都に出て名流と交わり、文武の道を研修した。書画ともに優れた
良寛との関係  上州屋の四看板(良寛、亀田、巻、富川)の一つを書く。

【富取芳斎 とみとりほうさい】
氏名・号  名は良通、字は良輔、号は芳斎
生没年  文化五年(一八〇八)~明治十三年(一八八〇)地蔵堂で病死。
職業   画家。
略歴  地蔵堂の素封家富取正為の長男に生まれた。九歳の時、三条の五十嵐華亭に入門。のち、京都の中林竹洞、江戸の谷文晁らに学んで独自の画境を開いた。三条の長谷川嵐渓とともに幕末の双璧と称された。
良寛との関係  「手紙の字だけは子供が読んでも分かるように書くべき」と良寛に言ったと伝えられる。良寛の弟子遍澄は芳斎について画を学んだ。

【富取正則 とみとりまさのり】
氏名・号  富取長太夫正則
生没年
出身地・職業  旧分水町(現燕市)地蔵堂の大庄屋・富取家第七代
略歴  大森子陽とともに大舟和尚に学んだ。
 長太夫正則の妹りさは中村家八代旧左衛門好忠(以水)に嫁いだ。
 長太夫正則の弟に、長兵衛(敦賀屋鳥井家へ養子)、之則(良寛の親友)、長左衛門(分家)がいた。長左衛門(分家)の子が北川。北川は医師、画家。 
良寛との関係  囲碁を好み、良寛様とよく打つ。良寛禅師奇話第十七話に記載あり。

【富取正誠 とみとりまさのり】
氏名・号  富取武左衛門(たけざえもん)正誠
生没年
出身地・職業  旧分水町(現燕市)地蔵堂の大庄屋・富取家第八代
略歴  長太夫正則の子正誠が富取家八代を嗣いだ。富取家八代正誠の弟直右衛門は敦賀屋鳥井家へ養子に入った。正誠の子庫之丞(くらのじょう)(倉太)が富取家九代を嗣いだ。良寛と親交があった。
良寛との関係  良寛と直接の交流があり、詩歌をたしなみ、良寛から妻を失った時の弔慰の歌をもらう。

【富取之則 とみとりゆきのり】
氏名・号
生没年
出身地  旧分水町(現燕市)地蔵堂
職業 儒学者。
略歴  之則は江戸に出て儒学を学んだ。従来、之則は、三春藩の藩儒となり、文化九年(一八一二)良寛五十五歳の年に、亡くなったとされていたが、「聞之則物故二首」という題の長詩を見ると、良寛が帰郷した時には、すでに亡くなっていたのではないかとも思われる。
良寛との関係   良寛が三峰館で学んでいた頃、一番の親友が富取之則。勉学を競い合った秀才同士だったようだ。

【外山文左衛門 とやまぶんざえもん】
氏名・号
生没年  一七五六~文政七年(一八二四)没した。享年六十八歳。
出身地・職業  旧寺泊町(現長岡市)の回船問屋で酒造業も営んだ。町年寄や大庄屋も務めた。
良寛との関係  妹「むら」の夫。むらとの間に二子をもうけた。