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関係人物 セ ソ

星海 せいかい → 山本宥澄 やまもとゆうちょう 良寬の弟(四男)

関長温 せきちょうおん・ながおみ

関根小左衛門家 せきねこざえもんけ

仙桂和尚 せんけいおしょう

蔵雲和尚 ぞううんおしょう

相馬御風 そうまぎょふう

宗龍禅師 そうりゅうぜんじ → 大而宗龍 だいにそうりゅう

曽根智現 そねちげん

【関長温 せきちょうおん・ながおみ】
氏名・号
生没年  ?~文政十年(一八二七)二月十四日死亡。
出身地  旧堀之内町(現魚沼市)竜光に生まれた。
職業  旧小出町(現魚沼市)に開業した医師
略歴  良寛の弟子貞心尼の夫になる。貞心尼(奧村マス)は文化十一年(一八一四)十七歳の時、関長温のもとに嫁いだが、子供ができなかったこともあってか、二十二歳の時に離別した。

【関根小左衛門家 せきねこざえもんけ】
 旧白根市(現新潟市南区)茨曽根の組頭。茨曽根の大庄屋関根五左衛門家の分家。良寛が出家する前に関根小左衛門家の娘と結婚したが、半年ほどで離別した。

【仙桂和尚 せんけいおしょう】
氏名・号  嫰蘂(どんずい)仙桂
生没年  ?~文化元年(一八〇四)。享年は一説によると四十七歳。
出身地
職業  岡山県円通寺で修行した僧。
略歴  国仙和尚の十七番目の弟子。三番目が玄乗破了でともに良寛の法兄にあたる。円通寺では典座(てんぞ)という食事の世話をする役職だった。墓は水月庵跡に近い墓地にあったが、最近円通寺に移された。国仙和尚の弟子のなかで、唯一「仙」の字をもらった。
良寛との関係  良寛は「仙桂和尚は真の道者」で始まる漢詩を作って、仙桂和尚を讃えている。坐禅や読経をするでもなく、ただ黙って畑を耕し、修行僧たちの食事の世話をしてた仙桂和尚を、良寛は見ていたが、本当は真の僧であることが見えていなかった。詩の中に「見れども見えず。遇えども遇わず」の句もある。

【蔵雲和尚 ぞううんおしょう】
氏名・号  謙巖蔵雲。号を寒華子という。
生没年  一八一二~明治二年(一八六九)示寂。享年五十七歳
出身地  長野県穂高村
職業  上州前橋の龍海院第二九世住職。
略歴  詩、歌、画にすぐれていた。
良寛との関  良寛の漢詩集『良寛道人遺稿』を貞心尼の協力を得て、慶応三年(一八六七)初めて刊行した。法華讃五十二首を含め、合計二百三十四首の漢詩が収められている。

 

相馬御風 そうまぎょふう(1883~1950)
 良寛の知名度を全国区にした最大の功労者は相馬御風である。詩人・歌人・評論家として著名な相馬御風は明治十六年に糸魚川市に生まれ、十代から俳句や短歌を詠み始めた。
 二十一歳で前田林外、岩野泡鳴らと東京純文社を結成し、機関誌「白百合」を創刊。
 二十四歳で早稲田大学英文科を卒業。同級生に会津八一がいた。
 島村抱月の「早稲田文学」など自然主義評論家として活躍。
 二十五歳で三木露風、野口雨情らと「早稲田詩社」を興し口語自由詩の先駆をなす。 また、早稲田大学の校歌「都の西北」を作詞。
 二十九歳で早大講師となるなど、東京で活躍した。
 しかし、大正五年三十四歳の時、御風が編集の責任を負っていた「早稲田文学」が秩序紊乱を理由に当局から発売禁止処分を受けた。
 御風はその年の三月に『還元録』を出版し、東京におけるすべての地位・名声を捨て、郷里糸魚川へ帰った。
 『還元録』には、真の人間になるため、本当の人間の生活のある郷里の糸魚川で生まれ変わり、「凡夫の生活」をめざすとある。
 帰郷後は木陰会(こかげかい)を結成し短歌の普及に努めた。昭和三年には、月刊「木陰歌集」第一集を発行する。
 大正十二年、童謡「春よ来い」を作詞。
 昭和五年には、一人雑誌『野を歩む者』を創刊した。
 相馬御風の生涯で特筆すべきことは、後半生をかけて、良寛の資料収集に努め、良寛研究に没頭したことである。
 糸魚川に帰郷したとき、糸魚川中学校(旧姓)には巻町出身で良寛敬慕者の松木徳聚(とくしゅう)校長と、燕市出身で、第一高等学校在学中に、校友会誌に論文「大愚良寛」を書いた山崎良平教頭がいた。山崎良平は東京帝国大学で夏目漱石から「英吉利学(いぎりすがく)」を学んでいる。御風はこの二人に会って良寛に傾倒していった。 
 また、大正三年に『北越偉人 沙門良寛全伝』の大著を刊行した西郡久吾からも大きな影響を受けた。
 御風の良寛に関する文章で最も早いものは、大正五年七月に新潮社から出版された『凡人浄土』の中にある次の一節である。
「こしにきて まだこしなれぬ 我なれや うたてさむさの 肌にせちなる
この歌の作者たる詩人良寛をこのごろわけて慕わしく思ふ(後略)」
 「早稲田文学」大正六年三月号の巻頭を飾ったのは御風の「大愚良寛」であった。以後、御風の「大愚良寛」は六月号まで四回にわたる連載となり、八月号から十二月号までは「良寛遺跡巡り」の連載となる。
 そしてこの二つの連載に書き下ろしを加えて刊行された著書が、大正七年御風三十六歳の年に春陽堂から刊行された『大愚良寛』である。
 『大愚良寛』は良寛研究の第一集大成ともいうべきもので、内容は良寛の生涯、芸術、思想に及び、好評により版を重ね、洛陽の紙価を高めた。越後のごく一部の人しか知らなかった良寛を全国的に有名にした記念碑的な不朽の名著である。
 『大愚良寛』は現在でも、考古堂書店から復刊され普及版『校注 大愚良寛』として、店頭に置かれている。
 大正七年には『良寛和尚詩歌集』も刊行した。 
 その後も御風は良寛に関する研究成果をまとめた著書を多数出版した。『良寛和尚遺墨集』『良寛と蕩児』『良寛百考』『良寛を語る』など、総数は二十一冊にのぼる。
 良寛の晩年に交流のあった若き尼僧の貞心尼についても、上杉涓潤の貞心尼研究の資料提供を受けて『良寛と貞心』を昭和十三年に著した。
 特に『良寛坊物語』『良寛さま』等の良寛の逸話を紹介した本は、子供向けの童話としてよく読まれた。今日、子供から大人まで広く良寛が知られるようになったのは御風の最大の功績である。
 作家の向田邦子は少女時代の思い出のエッセーの中で、親に見られたくないような恋愛小説などの本を机の中に入れておくときは、その上に良寛さまの本を乗せておいたものだと語っている。良寛さまの本とは、親が安心して子どもに読み聞かせることのできる本の代名詞ですらあった。
 このことは、逸話に表現された良寛の清貧の生き方や慈愛の心を多くの人々が好ましいものと考えていた証しである。
 また、日本の国石にも選ばれた翡翠の産地が糸魚川であることを発見したのも御風である。昭和二十五年、行風は六十八歳で永眠した。
 亡くなる前日には、当時北方文化博物館の学芸員で、良寛没後百二十年を記念した戦後初の大規模な良寛遺墨展の準備をしていた宮栄二が、御風の指導協力を求めるため糸魚川の御風宅を訪問した。御風は宮に、良寛のことを熱く三時間も話し続けたという。
 その御風宅は文化財として公開され、御風が収集した良寛の遺墨や資料は相馬御風記念館で大切に収蔵されている。

【曽根智現 そねちげん】
氏名・号  大久保は生家の姓、曽根は養子に入った浄玄寺の姓
生没年  明和元年(一七六四)生まれ、天保六年(一八三五)没。世寿七十二。
出身地
職業  出雲崎町羽黒町にあった浄土真宗浄玄寺の住職。
略歴  曽根智現は権律師に任じられ僧官一級を賜って本願寺の嗣講師に補せられた学僧であった。
良寛との関係  良寛の妹「みか」の夫。良寛が天華(てんげ)上人と呼んで漢詩に詠んだ人物は曽根智現と思われる。